食塩水問題再び

以前も食塩水問題について書いた。
そこでの主張は、「x %の食塩水」とは何を意味するのか、問題文に明記すればよいというものだった。
しかし、まだ言い足りないことがあるので、再びこの主題で書いてみることにした。
例題を再掲する。

例題(1) 5%の食塩水600g に10%の食塩水を混ぜて、7%の食塩水を作りたい。10%の食塩水を何g 混ぜればよいか。

先ずは、小手調べから。
「水500ml に16%の醤油と14%のみりんを加える」と言ったら、80ml の醤油と70ml のみりんを加えると解釈するのが自然ではないだろうか? これを塩分濃度16%の醤油とかアルコール度数14のみりんとか言い出したら、余程ひねくれた解釈だと思うのだが。では、なぜ食塩水の場合は、「x %の食塩水」で塩分濃度 x %の食塩水なのだ? 塩分濃度のことを言いたいのなら、せめて「塩分濃度 x %の食塩水」と言えばいいじゃないか。ええじゃないか。
教育関係者の間では、「食塩水問題が苦手な子供には、食塩水の濃度が食塩水全体に対する食塩の割合だという基本的なことがわかっていない子が多い」という論調が度々現れる。
以前の投稿で、私は消費税の例を出したが、建築の世界では、含水率というものがある。含水率は、建築材料に含まれる水分の割合を表すものだが、これには乾量基準を使う。乾量基準含水率は((乾燥前の材料の質量-乾燥後の材料の質量)/乾燥後の材料の質量)で求める。(上記は質量基準質量含水率の場合で、他にも容積基準質量含水率や容積基準容積含水率がある。)別の分野では、湿量基準で含水率を計算することがあり、その場合は、(水分/乾燥前の試料)で計算し、これにも質量で計算する場合や体積で計算する場合がある。どれが正しくてどれが間違っているというのではなく、それぞれにそのように定義され、それぞれに用途がある。食塩水問題における食塩水の濃度も(食塩/(水+食塩))と定義しただけであり、「食塩水問題が苦手な子供」は「基本的なことがわかっていない」のではなくて、その定義を知らなかっただけなのだから、教えてあげればいいのである。というか、問題文に但し書きとして入れればいいというのが私の提言である。
食塩水の濃度を質量で計算することに関しては、問題の作りやすさの都合でそうしているだけだ。だから、食塩水の濃度を質量で計算してほしいのなら、そう言えば済む話だ。
さて、以上のように、「x %の食塩水」とは、塩分濃度が x %の食塩水溶液で、塩分濃度は食塩水溶液における食塩の割合を質量で計算したものだということを問題文に明記すればよいというのが私の主張だが、相変わらず例題(1)のような問題が中学入試などで出題されるとしたら、教える側としてはどうしたらいいだろうか?

先生:「5%の食塩水600g を作るためには、水を何g 使えばいいかな?」
生徒たち:「…」
先生:「そうだね。600g の食塩水の中には600×(5/100)g =30gの食塩があるから、600-30=570g だね。」

ではなくて、受験は一種の競技であり、その競技のルールを知らないと勝負にならないこと、「x %の食塩水は、塩分濃度が x %の食塩水溶液のことで、塩分濃度は食塩水溶液における食塩の割合を質量で計算する」というのは食塩水問題という競技のルールであり、そのようなルールは往々にして成文化されていない、つまり暗黙のルールであるという、ぶっちゃけ話をしてほしいのだ。こういう学校では教えてくれないことを教えてくれるのが、塾の存在意義だと私は思っている。
では、塾に行けないような家庭の子供はどうしたらいいのか?
ごもっともである。
ごもっともであるが、そのような家庭の子供はうちの学校には来てほしくないというのが、学校側と保護者側の一致した本音ではないのかね? そして勿論、受験産業はそこに商機を見出している。この本音が変わらない限り、食塩水問題のような問題は、手を変え品を変え出題されると私は見ている。
食塩水問題は、ある宗派ではお焼香を何回するとか、ある流派では薄茶を泡立てるとか泡立てないとか、そのコミュニティーに属する者ならば当然知っておくべき常識を問う問題なのだ。小学校受験いわゆるお受験では、もっと露骨にマナー問題が出題される。これは、自分たちのコミュニティーの作法を知らない人間をふるい落とすための試験である。
これに関しては、私はプラクティカルに考えればいいと思っている。そのコミュニティーの仲間入りをしたいのであれば、お金を払って塾に行けばいい(「5%の食塩水ってどういう意味かな。考えてみよう。」とか言ってる塾には行かないように)。塾に行くお金が無いなら無いなりに、あの手この手で彼らの行動原理を研究し、しきたりを模倣して、そのコミュニティーの一員になりきればいい。
もっとも、そのコミュニティーに所属する価値があるのかないのかは、また別問題である。身内と部外者を峻別する儀式に明け暮れる閉鎖的な集団が、いずれオワコン化することは、じゅうぶんに考えられる。盛者必衰、諸行無常であることを思えば、ある時代のある地域のあるコミュニティーが永続することはあり得ない。
絶対王政の最期の甘い汁を吸うのか、新しい潮流に身を投じるのかは、各自で判断すればよい。
そして、自由・平等・友愛を掲げて絶対王政を倒したはずのブルジョワジーが資本家として新たな支配階級となったように、食塩水問題くだらなーいとか言っていた我々も、すっかり自分の地位を確立した頃には、新参者を拒む閉鎖的なコミュニティーを形成しないとは限らない。